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2018年5月 7日 (月)

お前はあれが他人に通用するとでも

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百年文庫81 「夕」  株式会社ポプラ社 2011年

 鷹野つぎ 悲しき配分
 中里恒子 家の中
 正宗白鳥 入江のほとり

視力の落ちた老人には、
大きな活字の「百年文庫」はじつにありがたい。
その上、どの巻も収録された作品にハズレがない。
ということで、
百年文庫81の「夕」で初めてその作品に触れた正宗白鳥。


正宗・・・、
正宗ってなんだ?
妖刀か?銘酒か?
って、
それだけでも恥ずかしいのに、
おまけに白鳥!
いやはや・・・、

ということで、
今までその名前だけで敬遠していた。

「入江のほとり」は1915(大正4)年、
正宗36歳の作。
百年文庫背表紙によると

   東京で気儘に学問をする栄一、
   地元で代用教員を務める辰男・・・
   瀬戸内海沿岸の旧家に生まれた六人兄弟は、
   「家」を起点にそれぞれの将来を思い描く。

という作品。




正宗は6男3女の長男。
兄弟は小説家、画家、国文学者、植物学者、実業家と、
みな人並み以上の成功をおさめたらしい。
ただひとり四男だけが変わり者で一族のお荷物的存在。
「入江のほとり」では「地元で代用教員を務める辰男」として描かれている。


いや、いますね、
どこの親戚の中にも、
ひとりは困った変わり者が。

うちの場合はオレですね。
よく出来た兄ふたりの下の、
どうしようもない甘ったれのふてっくされがオレでした。


変わり者の辰男さん、
一番の楽しみは独学での英作文なんですが、
その英語というのが、

   まったくの独稽古を積んできたのだから、
   発音も意味の取り方も自己流で世間には通用しそうでない。

というもの。
それでも本人にとってはそれがなによりの楽しみなんですね。
辞書を引き引き勝手な作文を英語に置き換えて行く、
無意味なことであっても、その行為自体が楽しいんですね。
そんな辰男に長男の栄一(白鳥)は言います。

  「今お前の書いた英文を一寸見たが、
  まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。
  あれじゃいろんな字を並べているのに過ぎないね。
  三年も五年も一生懸命で頭を使って、
  あんなことをやっているのは愚の極だよ。
  発音の方は尚更間違いだらけだろう。
  独案内の仮名なんかを当てにしてちゃ駄目だぜ。」

  「…………。」

  「なぐさみにやるのなら何でもいい訳だが
  それにしても和歌とか発句とか田舎にいてもやれて、
  下手なら下手なりに人に見せられるような者をやった方が面白かろうじゃないか。
  他人にはまるで分らない英文を作ったって何にもならんと思うが、
  お前はあれが他人に通用するとでも思ってるのかい。」

  そう云った栄一の語勢は鋭かった。
  弟の愚を憐れむよりも罵り嘲るような調子であった。
  「…………。」
  辰男は黒ずんだ唇を堅く閉じていたが、
  目には涙が浮んだ。

いやはや、身につまされます。
誰に聞かせようとか、
それで身を立てようとか、
それでなんとかしようとか、
そんな目的もなく、
どこにも通用しない、
通用させようという努力もなく、
ただただ自分の楽しみとしてつまらない唄を作り続けていた、
20代の自分とそっくりだぶります。

   お前はあれが他人に通用するとでも思ってるのかい。
   弟の愚を憐れむよりも罵り嘲るような調子であった。

胸を突かれますね。
でもその兄は、
兄弟の中で自分の資質に一番近いものを、
実は辰男に感じているんですね。

   「おれの子供の時分の気持に似てやしないかと思う。
   おれも家にじっとしていたらああなったかもしれないよ」

自分は小説で身を立てることができたが、
自分の小説も、弟のひとりよがりの英作文も
つまりは同じようなものかもしれないとの思いでしょうか?
そのような思いは白鳥晩年の作「リー兄さん」にも書かれている。

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  この弟が、半世紀近く後に、「リー兄さん」にもう一度描かれる。
  これは白鳥八十二歳のときに書かれ、白鳥最後の小説となったものであるが、
  リー兄さんこと林蔵、すなわち白鳥の四弟・律四の死を、
  兄・鉄造、すなわち白鳥の立場から描いている。
    【講談社文芸文庫解説(千石英世)より】

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「リー兄さん」は講談社文芸文庫「何処へ 入江のほとり」に収録されている短編。
「リー兄さん」と書いて、リーああさんと読むらしい。
兄弟は皆、律四(入江のほとりでの辰男)を、
年上、年下にかかわらず、
あだ名として「リー兄さん」と呼んでいるわけです。




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何処へ 入江のほとり  講談社文芸文庫 1998年




  父親は或る日、きょうだいの中での出世頭の長男の鉄造に向かって、
  「お前はリーに似ている。でも、お前はちゃんと世を渡っているんじゃからそれでえい訳じゃ」と、
  真面目に云った事があった。
  子を見る事親に如かずと云われているが、鉄造は意外な父親の批判を受け入れて、
  自分とリー兄さんとの類似を検討したことがあった。
  検討したってよく分からないが、ただ運次第で、
  彼の生涯が我の如くであり、我の生涯が彼の如くであったのか知れない、と思ったりしていた。


  父親が昔彼に向かって「お前は林蔵に似ている」と云ったことをふと思い出した。
  それから自分が画家になっていたら、林蔵の絵のような絵を書いていたのじゃないかと思ったりした。
  林蔵の絵だってここに傑れた批評家か鑑賞家か或いは愚かな批評家か鑑賞家が出て来て、
  これは独特の妙味ある絵画であると激賞したら、ゴーガンかゴッホか鉄斎かの如く持て囃さるかもしれない。


「傑れた批評家か鑑賞家」のあとに、
「愚かな批評家か鑑賞家」と続く視点が面白い。
小説であれ、絵であれ、唄であれ、
実用的でないそれらには、
絶対的な価値の基準はなく、
世間の評価は無意味だということでしょうね。

作家として名声を得ることの出来た自分の作品、
ただの汚い絵としか見えない弟の絵、
それにだれが正当な評価を下すことが出来るのか?
それは「ただ運次第で、彼の生涯が我の如くであり、
我の生涯が彼の如くであったのか知れない」のではないか?

そんな82歳の白鳥の思いに、
人が生きてなにごとかを為す、
そのことのいとしさ、淋しさを、
そして誰の人生もそのようなものだという、
抗っても諦めても結局はそのようにしかありえないというそのことに、
言い方は変ですが、
なにか安堵のようなものも感じました。

「リー兄さん」、
文庫本で12ページの、
短い、
そして読後感の深い作品です。




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